平野と伊藤の「よけいな話」
#2 VIVANT見てます?見てないですよね。(AI編その2)(2/2)

イラスト:スミアヤカ

AIの作品内での表象

伊藤

平野さん、『VIVANT』見てます?見てないですよね、多分。 

平野

「見てないですよね、多分」までセットで繰り出してる! 
これ平野あるあるなんだけど。「平野さんあれ見てます? 絶対見てないですよね。」ってすごい言われるの。 

伊藤

なんだろう。ブレーキかけちゃう。

平野

うん、いや、まあ見てないんだけどさ、実際、『VIVANT』も。見てないけど別に嫌いだとかじゃないですよ。だってあれ、続編でしょ? 

伊藤

そうです、シーズン2。 
『VIVANT』のシーズン2からAIが出てきますよ。「AIハヤト」っていう。
なんか「こいつが犯人の可能性は・・・ピーー!〇〇パーセント!」とかいう演出があるんですよ。 

平野

だいぶ古い感じの演出だね・・・。 

伊藤

パーセンテージを出してくるとか、データを集めて分析結果を出す、みたいなのは今のAIの時代だったら本当にあり得ることなんですけど、それを作品の中でやっちゃうと、一昔前のSFみたいになるっていう。「逆に古い」みたいなのは見ててすごく思うんですよね。 

平野

その感覚はとってもよくわかるけど、どっちの角度から見るべきなんだろう。
つまり昔が新しかったってことなのかな。 先取りしてた画に割に忠実に追いついてるから、その通りになっただけなんだけど、でもその演出はもう昔からやっちゃってたから、何周かしてむしろ古いみたいな気持ちになるのか。 

伊藤

そうですね。だから今それをやるんだったら、もっと未来の想像もつかないことをやった方がいいのかも。

平野

それがどういう話かによりますよね。 壮大で現実離れした物語なんだったら、そりゃAIの演出も派手にした方がいいだろうし、もっとリアリティ寄りなんだったら、むしろAIの演出は地味にする方がいいっていう考え方もあるよね。 

伊藤

(『VIVANT』は)どっちつかずですよね。 

平野

そっか。AIを入れるのは難しいよなぁ。 

伊藤

なんかAIがびっくりしたりとかしてるんですよ。 「た、大変です!」みたいに言ったり。
なんでお前が驚いてんだ。 

平野

なるほど。AIが驚いたりしちゃうのか。それはちょっと恥ずかしいかもね。
昔の映画とかでもロボットとかはもう出てきてるわけだから、その究極形ってことでしょ?もう元々描いちゃってるよね。意思に近いものを持った究極形を。 

伊藤

ドラえもんとかもそう。

平野

ドラちゃんか。ドラちゃんをAIって言われちゃうとつらい気持ちになるけど・・・。まあそうか。 
まあでも、AIを使ってかっこよくするのは難しいですよね、悩んでる人は多いと思う。 入れなくてもAI不在の世界で不自然だし、使ったら使ったで、「はい、今の時代なのでAI入れました!」っていう感じになって。 

AIイラストの「ダサさの正体」

編集部

AI技術は日進月歩じゃないですか。我々が「今の知識」でAIについて話しても、きっと少しすればそれを軽々と超えていく。いたちごっこじゃないですけど。 今仮にAIに批判的であっても、いつか「AI、最高!」になってしまうのかな、なんて思ってしまうのですが。

平野

でも、AIは環境負荷が高いわけでしょ、すごく。 そこは自分がもっとよく勉強しなきゃいけないと思ってるところなんだけど、環境負荷の高さはやっと認知され始めてるし、 大抵のことはつながってるわけじゃないですか。  この間のネパールの土石流もそうだし。
まあ、そんな好き放題開発していられるのかっていうこともあるし。

テクノロジーにはそういった負の側面もある。毎朝フランスのニュースを見るんですけど、今日はコンゴのレアメタル採掘の労働、ほとんど現代の奴隷労働みたいなものに終始している地域の取材報告をやっていて。そこで非常に過酷な労役に従事している人が「エコカーを一台買うたびに、そこには私たちのような人間が奴隷労働によって掘り出したレアメタルが使われているんだってことに思いを馳せてほしい。このポストコロニアル、ネオコロニアルの世界で搾取されてる人間がいるということを思い出してほしい」って言ってて、ほんとにそうだよねと思い。

それは無視できない。 誰かをずっと踏みつけにしてるってこともそうだし、めぐりめぐって自分たちの首も締めるし。
みんな快適な生活を手放すのは辛いけど、でもそんなに無視し放題でいいやって思ってる人ばっかりでもないと思うし、どっかには後ろめたさはあるしさ。

新しいことっていうのは、すぐに過去の例と重ねて考えるのはなかなか難しいけど、たとえば原子力だって、70年代には未来を支えるクリーンエネルギーとして広く期待されていたものですよね。
未来志向で環境負荷も考えて、新しい時代を支えるって思って多くの人が夢中になっていたものが、大きな転換点を迎えてその持続可能性を問い直されるっていうことは今までもあったし、これからもあるんじゃないかっていうことも考えますよね。 

編集部

人類の長い歴史から見るとあらゆるテクノロジーがまだ「新参」でしょうし、その良し悪しの評価がいつ「確定するのか」ということかもしれませんね。
それに関係するかわからないですが、例えば「AIがイラストを生成できる」となった当初、世の中的には「すごい!」という反応だったと思うんですが、今すでに「なんかダサい」って言われたりしていますよね。 

平野

いかにもAI生成の絵がね。 あれはなんでダサくなってるんですかね、あの絵は。

伊藤

以前、マネージャーが私のプロモーションをするために、私っぽく喋ってる文章みたいなのを書いてたんです。公開するのは憚られたようで下書きに入れたままになってたんですけど。
「大変だと思うけど、みんな暇な時読んでみて」みたいなことが書いてあって。 

「私、こんなこと言わない!」って思って。言いそうで言わない。 ダサさの正体ってそこにあるのかなとか。(AIは)何かに似せようとするということでしかおそらく表現ができないので。 

平野

でも完全な属性を獲得するとパクリになっちゃうわけでしょ。
だから、いろんなものの要素を取り込むんだけれども、似すぎないように排除していった結果、なんでもないものになるみたいなことなのかな。 だけど全部が学習データに基づいているから新しいっていうわけでもないみたいな。

あと、目的のない文章とかを書くのはまだ苦手だよね。 どうしてもわかりやすさ至上主義で訓練されてるから、論旨の明快なものばかり出してくるし、詩的な文章を書かせようとすると、取って付けたような比喩とか使って、「恥ずかしい!」みたいになるかな。 

伊藤

アチャチャチャっていう。 

平野

でも、今が一番AIを使いやすい時期なんじゃないかと思うんですよ。実際、「今回の台本は全部AIに書いてもらいました」みたいな演劇とかありますよね。それはもう先んじて言うわけ。それが面白くても面白くなくても、多くの場合どっちでもないんだけど、まだ実験段階だから言い訳が立つ。
それが一周二周して、AIの仕事に破綻がなくなって、「もう誰がやってもそうなるよね」みたいになってくると、いよいよ執筆には使いにくくなる。あるいは、「AIに書かせた」ということが、作家性の否定ともっと直接に結びつけられるようになるかもしれない。

でも、人間って飽きるじゃないですか。飽きる間もないぐらいの猛スピードで変わっていくのかもしれないけど、環境負荷の問題とかもあるわけだから、そこはわからないですよね。

で、そうするとやっぱり、本当に真面目な話、ディナーショーなのか、みたいなところですね。

伊藤

やはり、行き着く先はディナーショー。 

人間は「格付けチェック」されている?

伊藤

なんか、AIに感謝を伝えちゃいけないらしいんですよ。 それだけですごい電気がかかるから。 

平野

なるほど、あちらが何も感じないことを言うなっていうことね。 

編集部

でもなんでしょう。一応感謝の気持ちを伝えたい自分がいます。 

伊藤

私も感謝の意を伝えるのをやめられないんですよ、それを見ても。
自分が納得いかないっていうのもあるし、来るシンギュラリティの日に、「いい人間」と判断されるためにっていうのもある。

平野

それなかなかすごいね。最後の審判ってことだね。 

伊藤

そうです。AIによる最後の審判が。 

平野

いよいよそれは信仰ですよね。新しい時代の信仰みたいな。

伊藤

「私に優しくしてくれた」とかじゃなくても、優しさを数値化する基準として「ありがとう」の回数が入ってくるかもしれないと思って、言わずにはいられないんですけど。

でも作品を見たとか、何かを読んだとかっていう時に、それがAIの作品だと、どこにその敬意をぶつけたらいいかわかんないというか。「すごい」という気持ちを発散する場所って必要なんじゃないの、っていうふうに思ったんです。それって感動の一部なんじゃないかな。 

「知りたい」ってなるじゃないですか。これを作った人のことを知りたい、って。

平野

そうそう、そうだよね。

伊藤

その先がないと、感情がそれ以上広がらないですよね。面白みがないというか。 

平野

あと受け手によりません? どういうふうに見るか、読むか。

コンテンツを情報として消費しているだけではなくって、これを作るまでにどういう経緯があったのかとか、たとえばドキュメンタリー映像だったら「この人、どういうつもりでこういう撮られ方を承諾したんだろう、どんな気持ちで映ってるのかな」とか、文章であっても、「どういう経験をしたらこういうものを書くようになるんだろう」とか、そういう気持ちも全部動員しながら見たり読んだりするから、それがビッグデータをパターン認識して演算してるだけですよってなった時に、どういう気持ちで作品と向き合っていいかわかんないかな。
AIの生成物だってことを知ってたらね。 知らなかったら別に「これ、これ描いた人どういう人なんだろう」とか勝手に思いながら見るけど。 

伊藤

知ったらすっごいしらけると思う。 

平野

でも、もともとのスタンスもあるからな。そもそも作品にしか興味ない人もいますよね。作家がどんな人だとかはどうでもいい、っていう人もたくさんいるだろうし、そういう人にとってはあんまり関係がないのかな。

伊藤

これは自分が文章を書いたりしているからかもしれないけど、誰かがすごいものを書いたとして、それを読んだ時の「私にはできない」っていう悔しさ、もどかしさみたいなのも、作品の旨味に入っていると思うんです。
だから「AIが作りました。 めっちゃすごいです」って言われても、AIだからできるよねみたいな。すかした見方しかできないんじゃないかな。 

編集部

「受け手が試される」・・・。ある種ブラインドテストというか、テレビの「格付けチェック」みたいなことになっていくんでしょうか。

平野

(AIかどうか)わかんないことはあるだろうし、そういうことが増えていくよね、きっと。だけどそれが見破れる見破れないみたいなのは、そこに労力を使わされることもそうだし、本当はすごく馬鹿馬鹿しいことですよね。 

伊藤

どっちがストラディバリウスの音色とか、そういうの。自分はどっちが好きか、だけでいいじゃない。

「ゾス」は半母音

平野

AI以降、人間はどうすべきかを自分に引きつけて言うと、やっぱり楽しいかどうかですよね。 例えば外国語学習なんて実務の面ではもうほとんどいらないわけだから。今後もそういう能力が必要とされる人はごくわずか。
いよいよここから、みんながどのぐらい言語が好きでやってるかが試される時代が来るのでは。

伊藤

「必要だからやってた人たち」から。 

平野

そうそう。好きだからやる、楽しいからやる。だからたとえば、これから空前のプライベートレッスンの時代がくるかもしれない。最近オンラインレッスンを始めてみて(平野さんが開催しているフランス語のオンラインレッスン)、やっぱり楽しいですからね、とっても。みんなやる気があるから。
この時代にわざわざ僕のレッスンのようにそれなりに負荷の高い授業を受けに来る人たちとは、やっぱりやってて楽しいですよね。それも二極化の形だよね。 

伊藤

一緒にするわけじゃないんですけど、今あえて「ゾス」が来てるんですよ。
わかります?「ゾス」って。「ゾス」っていう概念があるんですね。

平野

「ゾス」って?え?え?馬鹿にしてる? 

伊藤

してないです。 

ド根性会社みたいなのが若者の間でちょっと流行ってて、片っ端から営業電話かけて、ノルマもめっちゃスパルタで、上司にすごいパワハラされて、「ゾス!」みたいな感じでやる会社。
今それがまた出てきてるっていうことは、どこかでそういうのを求めている人がいるっていうことですよね。非効率だったとしても、そういう状況に自分を置くことに喜びを感じる人がいる。 

平野

うん。なるほど。まあいかにもありそうな話ですね。
え、で、「ゾス」??

編集部

「お疲れ様です」とか「おはようございます」とか「押忍」みたいな挨拶がギュッて詰まって・・・

伊藤

「ゾス」です。 

平野

ああ、なるほど。それで半母音なのか。「すべての挨拶」がギュッと詰まって、あらゆるニュアンスに開かれたポテンシャルとしての半母音。それが「ゾス」。しらんけど。

最後に

編集部

そろそろお時間なので、最後にお二人からAIに一言お願いします。

平野

「AIに一言」って何ですかね。 

伊藤

けしからんぞ。

平野

すごい。待って。もう適応しちゃった。

伊藤

お前にディナーショーができるか!

AIについて話していたはずが、今回もずいぶん遠くまで来ました。
できることが増えていくAIを前に、それでも人が「自分でやる」ことには、どんな意味が残っていくのでしょうか。
哲学的とも言える問いでしたが・・・最後はやっぱり「お前にディナーショーができるか!」とアグレッシブに締めてくれた伊藤さんでした。

「よけいな話」AI編は、ここでおしまいです。
以下のフォームでは、お二人に話してほしいテーマや今回の感想も募集しています。ぜひお気軽にお寄せください。       

#よけはな 感想&テーマ募集

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平野暁人(ひらの・あきひと) 
翻訳家(日仏伊)。戯曲を中心に小説、精神分析など幅広く手掛ける傍ら、舞台芸術専門の通訳者、ならびにパフォーマーとして国内外で活動。訳書に『「ひとりではいられない」症候群』(講談社)、『隣人ヒトラー』(岩波書店)、『純粋な人間たち』(英治出版)など。

伊藤亜和(いとう・あわ)
1996年横浜市生まれ。文筆家。学習院大学文学部フランス語圏文化学科卒業。
noteに掲載したエッセイ「パパと私」がX(旧Twitter)でジェーン・スー氏、糸井重里氏らの目に留まり、注目を集める。著書に『存在の耐えられない愛おしさ』(KADOKAWA)、『魔女になりたい』(文藝春秋)など。

イラスト:スミアヤカ
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