「英語社会」で、多言語を生きる 〜通訳・翻訳家の心と身体〜
平野暁人インタビュー(1/3)
進行・構成:POLYGLOTS magazine編集部 写真:Coco Taniya
世界と学びをつなぐメディア、POLYGLOTS magazineの独占インタビュー第2回は、フランス語、イタリア語、韓国語などを学んでいる多言語使用者であり、翻訳家・通訳(日仏伊)の平野暁人さんです。主に舞台芸術の翻訳、通訳を担当される傍ら、近年は多言語パフォーマーとして活躍、自身の創作活動も精力的に行なっています。
2025年元旦に平野さんがnoteで発表したテクスト「もうすぐ消滅するという人間の翻訳について」はさまざまな議論を呼び、1週間で20万以上のアクセスを記録しました。また同年9月には、同テクストをテーマに据えたソロ・パフォーマンスを豊岡演劇祭で初披露しました。
今回は、テクストの中で語られた「人間の翻訳の終わり」とソロ・パフォーマンスの内容に始まり、翻訳という行為が意味するものや、多言語に触れることであらわになる自分自身の身体性・精神性など、平野さんの頭の中をたっぷり語っていただきました。
note「もうすぐ消滅するという人間の翻訳について」の反響
平野さんが執筆された note「もうすぐ消滅するという人間の翻訳について」についてお伺いします。2025年の新年早々に公開され、大きな反響を呼びました。どのような経験や気持ちからこのタイミングに公開しようと考えたのかを教えてください。
暇だったんです・・・。いや、もう少し真面目に言うと、2024年ごろから(翻訳や通訳の仕事の)オファーが本格的に減っているなと感じていたんですね。
僕は戯曲の翻訳やアーティストの通訳など舞台芸術の世界を中心に活動しているのですが、まず2020年春に日本に上陸したコロナ禍であらゆる来日公演や海外公演がキャンセルとなり、一気に収入が激減、というか一時はほぼゼロになった。それと同時にあらゆる領域でオンライン化が進み、講演やシンポジウムのようなイベントについてはいちいち海外と行き来しなくても開催できるようになった。そうなるとアテンドの需要は一気に減りますよね。コロナが一旦落ち着いて反動のような景気はありましたが、長期的に見るとやはり回復し切らない需要も多く、このまま完全には戻らないだろうと感じていました。そこへ生成AIが台頭し始めて、いよいよ全方向的に仕事が落ち込んでいく実感があったんです。
そして2024年を迎えたあたりではっきりと、「翻訳と通訳の仕事だけに絞って考えると、めちゃめちゃ減ってるわ」と認識しました。これはもう待ってても上向かない、もうダメだな、終わりだなと。周りの人達にも「この仕事、もう終わりなんで」とか言って、心配されて。で、日々「ダメだな」と思ったり「ダメだよね」と言い合ったりして過ごす中で、それならそれで「ダメの構造分析が必要だろう」と。
僕の場合、書くべきものがある時って、それが身の内に溜まっていって「これはまとめて文章にすべきだ」という感覚が訪れるんですね。そのゲージが少しずつ満ちていって、ある時「あ、今だ」と感じたんです。僕はそれを「書く身体が満ちた」と言っていて、その状態になると、あとは身体から言葉という器にこぼしてゆく。
そこから1週間ほど、食事もおろそかになるほどの勢いで一気に書きました。あとは、このテクストには象徴性があると感じていて、発表のタイミングも重要だと思っていました。それに自分で締め切りを設けないと書き上げられないし。誰にも頼まれていない、誰にも待たれていない、むろん対価も発生しない文章を独りで書くわけですから。それで、新しい年の初め、象徴的な瞬間に出すのがふさわしいと思って、2025年1月1日の正午に決めました。自分との約束を果たせるのは自分だけですから、必死でしたね。絶対に書き上げるぞ、と。
実際に大きな反響があったわけですが、その反響をどのように捉えていますか?
書いて発表して、「すべきことはこれですべて終わった」と思ったんです。だから、後はもう特に関心がなかった。反応がどうとかっていうことに、あんまり意識が行かなかったんですね。もちろん読んでもらおうと思って書いたわけだから、最初のころ、僕の仕事を知ってくれている人からのコメントが届いたりすると嬉しかったですよ。でもまもなく雲行きが怪しくなって、つまり壮大にバズり始めた気配を察知したあたりから通知とかもすべて切って、「もう関係ないから」と思ってお正月を満喫して過ごしていました。
だけど、あまりにもバズの規模が大きくなったせいで友人知人からちょいちょい連絡が入って。「こんな言われ方してるけど大丈夫?」とか「こんなポジティブな反応もあったよ」とか。なんかすごく賛否が分かれてるみたいだなあって思って。
でも、決めたのは、とにかく一切のリアクションをしないこと。褒めてくれる人や、連帯を表明してくれる人がいたとしてもお礼も言わないし「いいね」も拡散もしないし、逆に、批判や罵倒に対しての反論もしない。僕の座右の銘として、「バズったツイートは公共物」っていうのがあるんですよ。「書かれたもの」は私ではないので。「そこに私はいません」なので。みんな好きにしてくれればいい。
大きな反響があったことで、テレビや雑誌などメディアからの取材申込みもありましたが、テクストの論旨を理解してもらえていないと感じたのでお断りしました。というより、明らかにまともに読んでいない人が多いと感じた。内容を読まずにタイトルだけ見て、自分達がほしいコメント、証言を取りに来ているのではないか、と。で、こちらが「失礼ですが、最後までお読みくださったのでしょうか」と尋ねると「本旨を読みきれていなかった部分もあったかもしれません」みたいな返信がきて、え、「読んでない」って言った方がよくない? と思ったり。「読みきれてない」と言ってしまうと「読解力が低い」「理解力が浅い」と認めてしまうことになるけど、それでも「読んでいない」と自白するよりはいいんだろうか……。
ともあれ、そんな中で『神奈川大学評論』という雑誌から連絡があり、柴田元幸さん(翻訳家・米文学者)が僕のテクストを読んで非常に感銘を受けている、ということで、対談企画を打診されたんです。
最初は、「書かれるべきことはすべて書かれたのだから、もう何も語らない、語る余地がない」って思ってたんですけど、柴田さんのように真摯な関心を寄せてくださる方が、このテクストの可能性をさらに拓いてくださるんだなっていうことにも思い至って。じゃあもう少し自分自身も開かれた気持ちで、いろんな取材とか質問とかに対応していこうと思ったんですよね。
で、それが後にこのテクストを違ったかたちで発表していくことにもつながるんですけど。
読者の声から生まれたパフォーマンス
そのひとつが、9月に豊岡演劇祭で披露された「もうすぐ消滅するという人間の翻訳について」のパフォーマンスですね。このテクストを舞台化する経緯はどのようなものだったのでしょうか。
どうやったんだろう。
僕は分類できないものが好きなんですよ。なんだかよくわからないことをやりたいし、書きたいっていつも思っていて。このテクストに関しても評価が二分されたんですけど、「良い」と評価してくれた人は、これを「詩」「文学」「文明論」あるいはその全てだと思ったんですね。「良くない」と言った人は、これをもっとコミュニカティブなものとして捉えて、「主旨が不明瞭」「装飾過剰」「冗長」など、もっと効率よく情報を受け渡せるはずだという評価をした。
でも僕は、そもそもそういうものとしてこれを書いていないんですね。もちろん文章には好みというものがあります。まず自分にとって「快適」な読書であるかどうかというジャッジがあって、その快適さの基準が「わかりやすいもの」「効率よく情報を受け渡すもの」に特化している人もいる。でもこれはそういうテクストじゃなくて、自分の中の詩性(ポエジー)の運動に従って書いたものなんです。そもそも何かを主張したりメッセージを届けるためのものではなく、自然と自分の身体に満ちてきたものを自分なりの言葉にこぼしていった結果「書かれたもの」であって、「書こうとしたもの」ではない、という方が近いと思います。
あとすごく気になったのは、反応が「絶賛」と「酷評・冷笑」に二分されていて、「あいだ」がほとんど無いように感じられたこと。「これはよくわからないから、いったん判断を保留しよう」というのも知的にきわめて誠実な態度だと思うんですが、それよりも即時ジャッジを下したい、というか「ジャッジする存在として振る舞いたい」という欲望の作用を強く感じました。もちろん、慎重な人は黙っているから可視化されない、というSNSの構造的な限界もあるんですけど。
一方で嬉しかったのは、ものすごくいろんな人から「これは私の話だと思った」という反応が届いたことです。noteのコメント欄とかXのリプライとかはもう地獄化しちゃってるから関わり合いになりたくない、でも感じたことは伝えたい、という方達がたくさんDMをくださって、ライターさんやデザイナーさんはもちろん、様々な手工芸の職人さんとか、料理や製菓を専門になさっている方もいらっしゃいました。中には人工知能の開発に関わってこられたという方も。人間の仕事がどんどん代替されていく中で、「じゃあ人間にしかできないことはなんだろう」「自分は何を信じて続けていくのか」「無感覚になりたくない」「流されずに自分自身の価値観をみつめなおしたい」というように、いろんな人が自分の話として受け取ってくれた。
それを受けて、僕自身はむしろ「人間というのは捨てたもんじゃないな」と思ったんです。全然知らない人だし、褒めてくれても何にもいいことはないのに、「これは私の話だ」と思った人がいて、いてもたってもいられなくなってメッセージを送ってくる。この営みは人間にしかできない。だから、「人間というのは、いいものだな」と思いましたね。
で、そういう無数のリアクションの中に、「このテクスト、平野さんの声で聞いてみたい」という声もあって。特に友人知人からは「勝手に平野さんの声で脳内再生される」「いっそ本当に語りで聞いてみたい」と。それで「語り?まあいいかもね。暇だし」って思ったんです。
実際にどんなパフォーマンスになったのでしょうか。
基本的には、テクストを持って読むというところから出発したんですね。
持って読んでいるんですけど、だんだんそれが朗読から乖離していくというか、単なる「読み」ではなくなっていく。僕はこのテクストを何百回も音読しながら執筆したので、そもそも自分なりの呼吸というか、リズムに則って書かれているし、それぞれの場面に与えるべき「声」みたいなもののイメージも明確にあったので、僕が自分の生理で好きに読むことがそのままきちんと演劇として立ち上がっていくように、演出家はそれが読まれる「場」の方をを整えてくれた感じです。

舞台の装置や仕掛け、照明などによって、言葉が違う顔を見せていくようなパフォーマンスということでしょうか。
そうですね。まず、会場となった場所が市民会館の多目的室というところで。そこに一面、窓があって、時間の経過も感じられるんです。だから昼公演と夕方の公演では、雰囲気が全然違う。特に夕方はだんだん陽が落ちていくので、明かりがどんどん変わっていってね。それはそれは美しかったですね。
お客さんも、いわゆる「眼前に舞台があって、客席から一方的にそれを見ている」という感じではなくて、その部屋のいろんなところに椅子やマットのようなものを置いて、囲みに近い形にしたんです。その中を僕が歩き回ったりもしながら、読んで、演じてという感じでした。
この作品は、演じるごとにブラッシュアップしたり、内容が少しずつ変わっていくんですか?
どうなんでしょうか。おこがましいようですけど、このテクスト自体が古典化していくといいなと思っているんです。非常に証言性の高いものなので、下手にちょこちょこ変えたり後知恵で部分的に更新したりしようとすると、多分損なわれるものの方が大きい。
2024年の末に書かれたものとして、「当時、世界をこう見ている人がいて、このような言葉で切り取られた証言が残っている」という参照項として残ってくれるといいなと思っています。
あれを読んで、僕のことを「反AI主義」とか「反文明主義」とか言う人もいましたが、「こうであるべき」とか「これが悪い」とか、そういうことは必ずしも言っていない。5年とか10年とか100年とか経って、世界の状況が全然変わっていたとしたら、あのテクストの中で言われたようなことはもう何の価値もないかもしれない。AIの進歩は頭打ちだし翻訳も復権したし、今から見ればずいぶん薄っぺらい論考だったよね、ということになるかもしれない。
でも、それですら価値があると思っているんです。