語学とは、「相手の気持ち」になること
ネルソン・バビンコイ インタビュー(1/3)
進行・構成:POLYGLOTS magazine編集部 写真:Coco Taniya
「ポリマグ」特集第3回はシンガーソングライターで「文化通訳家」のネルソン・バビンコイさんのインタビューをお届けします。
アメリカに生まれたネルソンさんは、15歳の時の交換留学をきっかけに日本に魅了され、独学で日本語をマスター。YouTube黎明期に「日本語で歌うアメリカ人」として人気を獲得しました。その後、日本のアーティストへの英詞提供や英語プロデュースがきっかけとなり、『パプリカ』(米津玄師プロデュース、 <NHK>2020応援ソング)の英語バージョン制作担当に抜擢。その仕事が広く世に知られることとなります。
最近ではポッドキャスト番組『日本語JōZUですね!』で、海外や日本のカルチャー、エンタメ、政治、社会問題などについて、日本語で切れ味鋭いトークを展開。新たなファン(リスナー)を獲得しています。
今回のインタビューでは、そんなネルソンさんの生い立ちから始まり、日本語習得のプロセス、英詞作成の難しさややりがい、今の世界や日本について思うこと、「AIと言葉」など、テーマを横断してたっぷり語っていただきました。ネルソンさんの「おすすめ楽曲」付きです!
言葉の壁を超えたら「人間」になった気がした
まずは生い立ちからお伺いしたいと思います。カリフォルニアのご出身ですよね。
はい。ほぼロサンゼルス、ハリウッドの隣のバーバンクっていう町の生まれ育ちです。ユニバーサルスタジオ ハリウッドから車で 5分ぐらいのところ。おじいちゃんの世代から3世代、バーバンク。「バビンコイ(Babin-Coy)」は、結婚をしていないお母さんとお父さんのファミリーネームをハイフンで繋ぎ合わせたものです。バーバンクは間違いなくエンタメ業界・映画業界に支えられている町で、ハリウッドみたいな派手さはないけど、セットを組む美術さんとか、ヘアメイクさんとか、裏方の仕事に就いている人が多いですね。うちのお母さんもワーナー・ブラザースで警備員をやっていましたし、おじいちゃんも昔パラマウント・ピクチャーズのスタジオでカメラの台車を押す仕事(業界で「Grip」と呼ばれる仕事)をしていました。クリント・イーストウッド主演の映画でも仕事をしたことがあるんですよ。
高校でも映画の授業があって、脚本を書いたりとか、もうエンタメは完全に町の「文化」ですね。
そういった環境で育ったネルソンさんが、どうして日本に興味を持ったのでしょうか?
バーバンクは群馬県の太田市と姉妹都市で、自分が15歳の時、交換留学プログラムに参加する学生を募集していたんです。僕はゲームが好きで、NINTENDO(任天堂)に育てられたようなものなんで、「あ、ゲームの国の日本。行こうかな」みたいな軽い感じでした。
15歳の頃の僕は「映画の町」に住んでいたけど、特に映画業界で仕事したいわけじゃなかったし、「ずっとこの町にいるんだろうな」って勝手に思っていたんです。でも留学で日本に行ったことで「俺が住んでる世界ってこんなに狭かったのか!」って気づいた。留学から帰っても「また日本に行きたい! 日本語をしゃべりたい!」と火がついて、独学で勉強し始めました。15歳で自分が住んでいる場所以外の世界を知った、というのはいいタイミングだったと思います。
それから1年間バーバンクで勉強しながらバイトしてお金を稼いで、また太田に行きました。ホストファミリーと日本語で「今日は天気がいいですね」「そうですね」というような簡単な挨拶をした時、鳥肌が立ちました。「え? 今、日本語で会話してる! どういうこと?」みたいな。なんだか自分が「人間になった」感じがしたんです。言葉の壁を超えたら、「日本人とアメリカ人」とか、「男性と女性」とかじゃなくて、ただの「人間同士」になった。そういうことに「ビビビッ」と来て、それからはとにかく「日本語を極めたい」と思ったんです。

独学というのは驚きです。「読む」「書く」以外の「話す」はどのように学んだんですか?
YouTubeはない時代でしたが、Googleはすでにありました。僕はもともと自分で組み立てるぐらいのパソコンオタクだったので、インターネットを駆使していろいろ調べました。日本語学習サイトや、日本語を話せる場所やコミュニティも全部検索して見つけました。近隣のパサデナという町にコミュニティカレッジ(主に地域住民に安く教育を提供する2年制の短大)があって、そこには日本人の先生や留学生はもちろん、いろんなルーツを持った人たちがいました。年齢もバラバラですごく面白かったんですよ。高校に通いながら夜はそこに行って、日本人コミュニティに入ってバンドを組んで音楽をやったりする中で学んだことが多かったですね。例えば、自分がスピッツの『チェリー』を聞いていたら日本人の友達が「懐かしい!」って。「懐かしい? どういう意味なんだろう」って思って調べたら”nostalgic”とある。でも、英語だと”This is nostalgic.”って言わないんですよね。アメリカで”This is nostalgic.”って言うと”Why is it nostalgic?”って聞かれる。”It reminds me when I was in high school.”と主語と文脈を伝えないと伝わらない。みんなバックグラウンドがバラバラだからです。日本は比較的みんな同じ言葉で同じ文化を共有できているから、「懐かしいよね」「そうだよね!」「あの頃思い出すよね!」って納得できる。
だから僕も「懐かしいね!」って言ってみて、「懐かしいわけないじゃんお前!」ってつっこまれながら「ああ、そういうことなんだ」って言葉を覚えていったんですよ。
パソコンと行動力で、とにかく日本語の環境に飛び込んで行った、という感じなんですね。そうやって日本語の勉強をして、日本語能力検定で当時の1級、今のN1(最も高いレベル)を取得されていますね。
一発合格でした。大学時代ですね。
すごいですね!
大学はUCバークレー(カリフォルニア大学バークレー校。世界大学ランキングで常に上位に入る名門大学)で、最初はプログラミングを専攻していました。高校の時からプログラミングは得意で理解していたつもりだったんだけど、バークレーはレベルが全然違った。みんなについていけない、というか、ついていきたいと思わなくなった。パソコンの前で一生仕事したくないと思ったというのもあります。そこで専攻を日本語に変えて、思いっきり日本語を勉強しました。古今和歌集、万葉集、源氏物語などを日本語で読んだり。大学で日本語はさらに鍛えられたんじゃないですかね。そのおかげで日本語能力検定1級に合格することができました。

日本での紆余曲折と、『パプリカ』に続く道
大学を卒業してからいよいよ日本にいらしたわけですね。
いや、実は大学の途中、1年間慶應義塾大学に留学していました。
UCバークレーから慶應に留学! すごいですね。
学歴だけは(笑)。実は日本に留学していた時に路上ライブをやっていたら、スカウトされてメジャーデビューが決まったんですよ。でも、当時いろいろ制度的に厳しくなっていて、学生ビザから興行ビザへの切り替えができず、残念ながら帰国せざるを得なくなってしまったんです。神様に「ネルソンはいまデビューするんじゃない。まず卒業しろ」って言われてるような気がして、アメリカに戻りました。ちょうどその時、YouTubeが話題になっていました。2006年ぐらいのことです。そこで日本の曲をアメリカ人の僕がカバーしたら面白いなって思って投稿していたら、すごく反響があったんです。日本からメールもたくさん来て、「あなたの声を聞いて救われました」とか。そんなこといままで言われたことがなかった。「そこまで言う人がいるんだったら、音楽やらないと!」っていう使命感のようなものを感じて。それでYouTube活動をしながら大学を卒業して、日本に来たというわけです。当時は英語講師をやりながら音楽活動をしていました。渋谷を歩くだけで「YouTubeの”ネル”さんですよね?」って毎日声をかけられるぐらい知名度が上がって、テレビにも呼ばれました。2008年にテレビでプロの歌手の前でその人の曲のカバーを歌う、という企画があって。平井堅さんの曲を本人の前で歌って優勝したんですよ。その番組の放送を2週間後に控えて「ああやばい、俺の時代来た! 日本に来て半年かー、早いなー。さすがだなー」って思ってわくわくしながら待っていたら、放送前夜にYouTubeからメールが来て、「あなたのアカウントは著作権侵害で削除されました」と。当時YouTubeでの無許可カバー演奏はグレーゾーンだったんですが、たぶん僕が注目を浴びすぎて「この人勝手に歌ってますよ」っていうクレームが入ったんでしょうね。翌日その番組が放送されて、「ネルソン・バビンコイ」の名前が全国に広まったものの、検索しても出てこない。僕の人生にとってこれは大きかった。
挫折感がありましたか?
なんかすごくアンフェアだなって。確かに無許可カバーは厳密には良くなかったのかもしれないけど、それで収入を得ていたわけでもないし、腑に落ちない部分はたくさんありました。でも今となっては、やっていてよかったなって思えることもあります。ある時、日本のアーティストの英詞サポートでレコーディング現場に行った時、若いエンジニアさんに「YouTubeの”ネル”さんですか? 中学生の時めっちゃ聞いてました!」と言われたことがあって、自分の知らないところで人に影響を与えていたんだなって実感しました。
自分がプレイヤーとして歌を歌う一方で、今ネルソンさんがやられているような、日本のアーティストの歌詞の翻訳や英語指導のような裏方の仕事をやることになったきっかけは何だったんですか?
日本に来てから、CS番組(スペースシャワーTV)のVJオーディションがあって、それに申し込んで優勝したんですね。
なんでも優勝しますね!
そうなんですよ! 結構打率が高いんですよ(笑)。VJとしてナオト・インティライミさんと新人発掘の番組をやっていて、売れる前のSEKAI NO OWARIや、THE BAWDIESと仲良くなって、よく飲みにいってたんです。飲みながら彼らが「英語で歌いたいな」って言うから「任せてくれよ!俺日本語も英語も両方書けるから!」っていう流れで英詞のサポートをするようになりました。自分でも「なるほど、こういう道があったんだ」っていう感じがありましたね。その頃から自分でも力試しのつもりで「日本の名曲を英語で歌う」という新しい動画シリーズをYouTubeにアップし始めました。3、4年続けていくと日本語詞の英訳の実力がどんどんついていく実感がありました。
そんな活動をしている中で『パプリカ』(歌:Foorin、作詞・作曲・編曲:米津玄師 <NHK>2020応援ソング)の歌詞の英訳の依頼が来ました。音楽業界で仲良くなった人たちが「英詞はネルソンがいいんじゃない?」「ああ、ネルソン。いいね!」って言ってくれたみたいです。自分の今までの経験や道が交差した。僕も実力がついて準備ができていた。そんなタイミングでしたね。2017年ぐらいのことです。
Foorin team E “Paprika”