さまざまな「わかり合えなさ」を描くこと 藤見よいこインタビュー (1/2)

『半分姉弟』の作者が考える、エスニシティ、コミュニケーション、そして言葉

半分姉弟

進行・構成:POLYGLOTS magazine編集部 写真:Coco Taniya ©︎藤見よいこ/トーチweb

POLYGLOTS magazine独占インタビュー、今回は、著書『半分姉弟』(はんぶんきょうだい/リイド社)が話題を呼んでいる、漫画家の藤見よいこさんにお話を伺います。

スペイン留学時に描いていた歴史漫画からキャリアをスタート。徐々に現代の社会問題にテーマをシフトしていき、自らが「ミックスルーツ」(複数の国、文化、民族、または人種的背景を持つ)であることに向き合いながら執筆した『半分姉弟』は、ウェブ連載を経て単行本化されると、数々の漫画賞を受賞。丹念な取材を通じて、ミックスルーツを持つ人たちの葛藤を時にシリアスに、時にユーモアを交えて生き生きと映し出す本作は、マイノリティ当事者の人たちの共感を呼ぶとともに、「いままで見ずにすごしていた(すごせていた)」景色が提示されることで、いわゆるマジョリティ属性の人々には新鮮な驚きと感動を持って受け入れられています。

今回のインタビューでは、藤見さんが漫画家を目指したきっかけに始まり、『半分姉弟』を切り口に、日本のポップカルチャーにおける「表象(representation)」の問題や、マイノリティ・マジョリティの間で交わされるコミュニケーションについて、「エスニシティ」(民族性。特定の文化や言語を共有する集団のアイデンティティや所属意識)や「わかり合えなさ」などをテーマに深くお話しを伺いました。最後には「英語」や「語学」についても話が及ぶ本インタビュー。英語学習者のみなさんにとっても、「言葉」を取り巻く社会の現状を見つめ直すきっかけになるはずです。

※本インタビューでは、様々な議論がある一方で、日本社会ではいまだ広く使われている「ハーフ」という呼称をあえて使用している箇所があります。

商品画像

半分姉弟

「ハーフ」と呼ばれる人々の日常と溢れる感情を鮮やかに描いた、わかりあえなさと手を繋ぐ群像劇。定価 880円(税込) リイド社

『半分姉弟』に至るまで

ご著書『半分姉弟』が今、本当に話題になっています。本日はこの作品をキーに、日本における「ミックスルーツ」の人々を描くことや、マイノリティとマジョリティのコミュニケーションについて掘り下げていきたいと思っているのですが、まずその前に、藤見さんのパーソナルなことについても少しお伺いしたいと思っています。藤見さんが漫画家を目指されたきっかけを教えていただけますでしょうか。

漫画は子供の頃からずっとすごく好きで、ドラえもんが一番好きでしたね。母が漫画好きだったのもあって、一条ゆかり先生などの少女漫画も好きでした。その後ジャンプとか少年漫画にはまったりとか。

絵がちょっと描ける子供って、絶対「漫画家になりたい」って言うと思うんですけど、それくらい素朴な気持ちで私も漫画家になりたいなと思っていました。でも大きくなるにつれて次第に漫画からデザインや装丁に興味が移っていって。高校を卒業してから、スペインに留学して語学学校からはじめて、美術の専門学校に進みました。私の父はスペイン人なんですけど、自分のルーツでもあるスペインで学んでみたいと思ったのもあります。

そこでの生活が結構大変だったこともあり、現実逃避的にずっと漫画を描いて、ホームページに載せていたんですね。そうしたらそれを見た出版社の方が、「これを書籍にしよう」って声をかけてくれて。だから、最初は「棚ぼた」的なデビューでした。

スペインで大変だったことというのは、どんなことだったのでしょうか?

やっぱり言語ですね。スペイン語は子供の頃から父に少し教わったりはしていたんですけど、全然流暢に会話できるレベルではなかったんです。スペインで美術の学校に入ってからは、授業で専門用語がたくさん出てきたりして、とても大変でした。そんなことも影響してか、スペインでは「自分は日本人なんだ」っていうことを結構強烈に意識していた気がします。ちょっとナショナリスティックになっていたかもしれません。もともと歴史が好きだったこともあって、その頃描いていたデビュー作となる漫画も戦国武将を題材にしたものでした。

歴史を題材にした漫画を描かれていた藤見さんですが、その後の作品を拝読していると、少しづつ現代的な社会問題を扱うようになっていったという印象があります。

はい。一時期、洋画をすごくたくさん見ていた時期があって。外国の映画では、人種やレイシズムに関することが当たり前のようにイシューとして扱われていたり、「今まで光が当たってこなかった人たち」をちゃんと描こうとしていると感じていました。

そういう「社会の問題を描く」流れが今の日本の漫画界にも来ていると思っています。例えば増村十七先生のバクちゃんという金字塔的な漫画があります。増村先生自身がカナダで移民として生活した体験を基に書かれた漫画です。「バクちゃん」っていう宇宙人が現代の日本にやってきて・・・という漫画ですが、明らかに「移民」のメタファーとして描かれています。すごく社会的で面白い漫画です。フェミニズム的な文脈なら、高野ひと深先生のジーンブライドや、ヤマシタトモコ先生の違国日記とか。フェミニズムについては、女性漫画の世界では萩尾望都先生の時代からずっと描かれてきた歴史がありますが、ここ 7、8年ぐらいで、もっと明確に描く流れが来たと感じています。これらの漫画にもとても影響を受けていますね。

デビュー作から何作かを経て『こんな夜でも、おなかはすくから。』という漫画で初めて現代物を描きました。担当編集さんが社会的な課題に関心がある方で、その方の後押しもあって、ジェンダーロールやルッキズム、ヤングケアラーなどについて描いてみて「あ、現代の話もいけるな」という手応えを得ました。

『半分姉弟』は、そんな数あるイシューの中で、自分も当事者である「ハーフ」というテーマにきちんと向き合った作品ということになります。

ミックスルーツについての漫画は、まだまだ珍しいですよね。前例がないだけに、苦労をされていることも多いのではないかと思います。

そうですね。移民や外国人のキャラクターはあっても、ミックスルーツが主人公の作品っていうと本当にないなって思います。例えばLGBTQについては日本では 「百合」や「BL」といったジャンルで描かれてきた歴史はありましたが、作品も多いだけに、最近は「こういう描写はちょっとステレオタイプ的だよね」とか「こういう描き方すると偏見を助長するよね」とか、読み手の批評眼もすごく進化しているなっていう体感があります。

でも、ミックスルーツやエスニシティをテーマにした作品は、どういう描写がよくない、という批評もまだあまりない状態だと思っています。もっと言うと日本にはまだ、ステレオタイプすらないというか、ステレオタイプができるほどの蓄積すらまだないなって。だから、どういう描き方をしたらいいのかは、まだ本当に手探りの状態です。

藤見よいこさん
                     藤見よいこさん

「ステレオタイプがまだない」とは具体的にはどういうことでしょうか?

例えば『半分姉弟』で中国ルーツを題材に描いた回があります(関口紗瑛子とその母)。それを読んだ中国系の方から「語尾が ”〜アル” じゃない中国人を書いてくれてありがとうございます」って言われて。日本で描かれる中国人の表象がまだその段階にあるといいますか・・・。例えばアメリカの映画などで指摘される中国系のステレオタイプに、「移民一世の親がすごく苦労してきたから子供にはその苦労をさせたくなくて、教育熱心になっている」というものがあります。子供は優等生。でも親の抑圧にちょっと苦しんでる、というような描写です。これが最近「ステレオタイプだよね」って言われているんですけど、このレベルの描写がまだ日本にないと思っています。実態が反映されてない。

なるほど。ある文化を参照するにしても単一的で、「どの時代のどういった背景を持つ文化なのか」という「幅」がないのかもしれませんね。一方で、特定の文化やエスニシティを描こうとするとき、「ステレオタイプにならないようにしよう」と意識しすぎると、結果的にそれがどの文化のことを指し示しているかわからなくなる、というようなジレンマに陥らないでしょうか?

難しいですよね。例えばアメリカの作品で、アジア系のキャラの目が細く書かれちゃうことが多いとします。でも全員がそうじゃないから、それは「ステレオタイプで差別的である」と感じる人たちがいる一方で、「自分と近い身体的な特徴を持つキャラクターがいる」ことが嬉しいって思う人も、もしかしたらいるかもしれない。結局アジア系であれば100人いて100人の目が細い、というのがよくないということだと思っています。やっぱり「単一的」であるのが問題で、キャラの描かれ方が多様で分散されているのが一番。それでしか解決できないな・・・と思っています。

常に悩みながら「エスニシティ」を描く

藤見さんがエスニシティを描くときに、ルールというか「こうしよう」または「こうしないようにしよう」という基準はあるのでしょうか?

『半分姉弟』のフィリピンにルーツを持つキャラ(沼田瑠詩愛)のお母さんはフィリピンパブで働いてたという設定にしました。これはある意味ステレオタイプではあるので、迷いましたね・・・。 偏見が嫌だという人もいれば、でも実際、歴史的にそういう方々がすごく多かったのは事実で、「フィリピンパブなんかで働いてないよ」っていうのもそれはすごく失礼だなって思うし。そういうバランスはとても難しいなって思います。

             沼田瑠詩愛(第4話より ©︎藤見よいこ/トーチweb)      

藤見さんご自身には、エスニシティを「イラストレーション」として描く「怖さ」のようなものはありますか?

作画について言うと私はそんなに「リアル」寄りの絵ではないので、基準自体はそこまで厳しくはないとは思うのですが、やはり私は父が白人なので、その立場で別のエスニシティを描いていいのかなっていうのはずっと思っていますね。自分がこのイシューの象徴みたいになるのも、実はすごく嫌だなって思っています。

ちょっと脱線してしまうかもしれないのですが・・・日本のアニメ、漫画を始めとするポップカルチャーでは例えば、髪の毛が青かったり、黄色だったり、赤かったり、エスニシティ文脈とは違った多種多様なキャラクター表象がありますよね。それについてはどう思われますか?

そうですね、日本の漫画は良くも悪くも「エスニシティから自由」なのかもしれませんね。 金髪のキャラクターもいわゆるコーカソイド(白人)なのかっていうと、別に全然そんなことはなかったりとかするし。それは面白さだし、豊かさでもあると思うんですけど、そこで「語られてこなかったこと」もあるんじゃないかなと思います。日本の漫画は最近本当に世界で読まれるようになっていますが、欧米のファンはもう明確に、人種というものがある前提で見ているなと思っていて、そのズレはあるなって思いますね。

日本国内で「ポップカルチャー」として受容されていた「多様な表象」が、欧米はじめ海外から見られた時にエスニシティを付与される、といった感じでしょうか。

ああ、それもあると思いますね。例えば最近「ポケモン」でも「褐色」のキャラが増えていて、Xを見ていると、海外の当事者たちがとても喜んでいるんですね。「こんな可愛いキャラクターがポケモンに!嬉しい!」みたいな。作り手側が明確に「アフリカ系」など特定のエスニシティを設定しているかというとそうではなく、単にキャラ属性として「褐色」である、ということだと思いますが、ポケモンは明確に「世界で売る」目的もあるので、意識的に多様な表象を描こうとしているんだと思いますね。

難しい部分を悩みながら描かれていると思いますが、その結果たくさんの人に受容され、反響も大きく、漫画賞(「CREA夜ふかしマンガ大賞2025」、『このマンガがすごい! 2026 オンナ編1位』、第30回手塚治虫文化賞マンガ大賞ノミネート)も複数受賞されている『半分姉弟』はエポックメイキングな作品だと思います。

ああ、ありがたいですね。本当に。でも、もしかしたら30年後くらいには日本のエスニシティに対するリテラシーが数段上がって、 「あの作品は最悪!」みたいに言われているかもしれないですね(笑)。でもやっぱり「最初にとりあえずやる」っていうのが大事だったのかなって。これを読んで「こうじゃねえぜ!」って思ったハーフの人が、カウンターとしてもっといい漫画を描いてくれたら、それって最高だなって思うんですよ。カウンターを重ねながら発展していくのが、カルチャーだと思うから。

実際に読者さんからの反響にはどんなものがありますか?

どうなんでしょう、最近エゴサとかしないようにしているから(笑)・・・。でも、漫画を更新すると、 当事者の方々が、批判的であっても「うちの場合はこうだった」とか、「自分はこうじゃなくて・・・」と、「自分の話」をしてくれるのが嬉しくて。当たり前だけど、この漫画は「ハーフのカタログ」とか、「日本のカタログ」ではないですし、実際の世界には本当にすごく色々な方々がいるわけですから、自分の体験をシェアしてくれるのはすごく嬉しいですね。そういう、みなさんが自分を語るきっかけになったらいいなって思います。

これほど注目を浴びている理由は、どんなところにあると思いますか。

ミックスルーツを持つ人たちや、在留外国人はずっと昔からいるし、今の社会的状況を反映したつもりはないんですけど・・・、昨年あたりから顕著になってきた外国人に対する排外的なムードの影響は明確にあると思っています。「今だからこそ読んでほしい」って言ってくれる人がすごく増えました。社会が悪くなるにつれ需要が高まるっていうのは複雑ですね・・・。だからシンプルに「漫画として面白い」って言ってもらえるのが一番嬉しいですね。

「わかり合えなさ」と「ぶつかり合い」

『半分姉弟』には「マイクロアグレッション」*と呼ばれるものがたくさん描かれていますね。例えば、マンダさんがコンビニで知らないおじいさんに「純粋な日本人じゃないな」と言われてショックを受ける。そのことをすぐに親友のシバタさんに伝えたら「自分もそういうことあったよ」といった「ちょっとずれた共感」を寄せられる。「マイクロアグレッション2連発!」というシーンが苦しく、読んでいて息が詰まるようでした。マイクロアグレッションが厄介なのは、言っている本人が無自覚だということと、もっと言えば「寄り添おう」とさえ思っている、というところだと思います。これはマイノリティ、マジョリティの間にある大きな溝ですよね。

*マイクロアグレッション
日常の中で、意図せず相手を傷つけたり、差別的に感じさせたりする言動や態度のこと。本人に悪意がなくても、受け手にとっては負担や不快感となる場合がある。

ありがとうございます。市川ヴィヴェカさんという、ミックスルーツのメンタルヘルスなどについて発信している方がいらっしゃるのですが、その方はマイクロアグレッションについて説明される時、「私たちは、”禁止ワード”のリストを作りたいわけじゃない」とおっしゃっていて。マイクロアグレッションも「これをやったら100% NG!」みたいなことがあるわけじゃなくて、文脈や関係性によるようなことだし。しかも、「間違えたら一発アウト!」でもなくて、 その後反省して寄り添おうとしたりとか。私は、教科書的なことじゃなくて、やっぱり人が「不完全でもぶつかり合う」ようなことを描きたいなって思っています。

そういえば以前、感想で「(ぶつかり合いを繰り返す登場人物の)コミュニケーションのスタイルが昭和的」って言われたことがあって(笑)。担当さんに「逆に令和のコミュニケーションってどんなスタイルですかね?」って聞いてみたら、「やっぱ、24時間で消えるんじゃないですか」って(笑)。

ストーリーズみたいな(笑)。確かに1話のマンダさんとシバタさんは、思い切りぶつかり合ってますよね。

そうですね。でも、やっぱりその先にしか変わる余地はないと思うんですよね。別に辛かったら離れてもいいし、 究極的には、ミクロの人間関係の中でちょっとずつ変わっていくことでしか社会も良くならないなって思うから。

マイクロアグレッションに関して言うと、やっぱり、通りすがりの全然知らない人に失礼なこと言われるよりも、「今後もずっと一緒にいたいな」っていう人から飛び出した言葉の方が、すごくこたえるし。その人とうまく関係を続けていくには、どうしたらいいのかなってことはすごく考えますね。